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- Date:2024年11月23日
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ジャンル無差別乱発
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口元が濡れている感触がして、バッツは手の甲を口に持っていった。音はしなかったが、手の甲が上滑りするくらい、濡れている。だんだんと体に戻ってきた感覚からして、顎の先までそれは続いている。
バッツは口にやっていた手でそのまま目をこする。一応濡れていないだろう場所を選んだつもりだったが無茶だったようで、ぬるっと肌に何かついた。不快に瞬きを繰り返し、目を覚ます。
どうやら自分は玄関に倒れているらしい。かたいフローリングと、何足か持っている革靴の独特な臭い、膝から下が普通よりも高いたたきの段差に引っかかっている。
倒れ伏す先の七畳間にある窓からは外からの光が差している。光は柔らかい穏やかな色で、軽く見積もって昼間際の午前中と言ったところか。そう考えながらバッツは寝ている最中にいつの間にか開いたらしい、口から漏れ出る涎に指先を伸ばした。少し糸を引いたそれは外気に触れて冷たい。
ふと、真横に投げ出された左腕の下に、何か挟まってるのに気づいた。細い何かが腕にたくさん当たっている。顎で涎を広げながら視線を引き下げると、それは金色をしていた。人の頭髪だ。
「うわあ…」
尾を引く眠気で勢いよく驚くことはなかったが、バッツはそれなりにびっくりした。
ちょうどバッツの首辺りの位置でくったりしているその人は、バッツが通う大学の院生で、バッツの所属するゼミの教授とそこそこ仲がよろしいらしく、よくゼミに顔を出し、昨日の飲み会にも参加していた、かっこいいというより美しい類な顔の、しかし立派な成人男性だ。ただ、男性というにはやけに小綺麗すぎる顔だが。本名はクラウド・ストライフだったか。
彼はほとんどたたきに膝をついて突っ伏している。バッツと対照的に右手をバッツの腰にやってる姿勢で、左手をうつ伏せ寝している顔の下に敷いている。格好から察するに、昨日の飲み会で意識を落としたバッツを家まで引き連れてきたのだろう。見かけによらないそびやかな外見のわりに力はあるようだ。バッツと同じく酔いつぶれたか、運び疲れて玄関から先に進まなかったみたいだけれど。
「そんな格好で寝たら、膝が痛くなるだろうに」
奔放に伸び上がっている髪をちょいちょい引っ張ると、彼はバッツの脇下から手を抜いて、煩わしげにバッツの左手を叩き払った。
仕方なくフローリングまで引き上げてやろうかと思えど、細身であってもバッツと同じような身長の男を起き抜けで酒精の抜けきらないバッツが抱えるのは無謀であり、おまけにクラウドの右手はバッツの左手首にかじりついている。
めんどくさいなあ。自分で起きてくんないかなぁ。バッツは思った。
「おーい」
「…」
「起きろって。おーい」
「……」
駄目だこりゃ。
バッツは体にのっかっていたクラウドの腕を乱暴に放る。けっこう痛そうな音を立ててたたきにぶつかったが、起きる気配はない。
とにもかくにも、自分が作ってしまった小規模な涎の水溜まりだけは片さないと。まだ諸々が安定していないバッツはゆっくり不格好に体を起こした。脇のユニットバスに入り、顔を洗ってタオルを手に取る。さすがに吐きはしないが、知らないうちにどこかしら体をぶつけたか、体の節々が軋むように痛んだ。玄関に戻っても、クラウドは微動だにした様子がない。
「…みじめ…」
他人が吐いた汚物でないだけマシなものだ。バッツはため息を吐き吐き、タオルを放る。宙でふわりと広がったタオルは、その端をクラウドの頭に引っかけた。革靴の臭いに混じって、酒ではない涼やかな薫りがふと漂う。何の匂いだろう。さっさと涎を拭いて丸めたタオルをちょっと脇に置き、犬か何かのように四つん這いになって鼻を鳴らす。バッツのものでない、他人の匂いだ。
バッツはしばらくクラウドの後頭部を見やり、意を決して彼のうなじに鼻をつけた。
森か水辺の、澄んだ空気を髣髴とさせるひどく落ち着く匂いだった。生身の人間にはまず有り得ない。強くはないが、分煙化のなってない酒屋での酒や煙草の臭いにも負けない香水なんだろうと見当づける。故郷の田舎を思い出して、バッツは規則正しい寝息を吐くクラウドの頭を抱え込んで、顔をうずめた。
(ボコは元気かな)
前の長期休暇に帰ったとき、実家にいる愛鳥がひどく老け込んでいたのに、若干戸惑ってしまった。いつか、バッツよりも早く死んでしまう愛鳥の未来が、少し恐ろしい。
(にしても、こいつって変わってるなあ)
同じゼミ生にはバッツの家を知ってる友人だっているのに、何故クラウドが付き添いなのだろう。名前で呼び合う仲だが、そこまで親しくないはずだ。…それは彼が起きたら尋ねればいいか。
油っ気のない冷たい髪がバッツの頬に刺さる。日の当たらない玄関なんかで寝ていたからか、指先は互いに冷えていた。顔を埋めながらバッツは、少し深爪なクラウドの指先をなぞってため息を耳の先に吹く。ちょっとした悪戯心だ。彼は僅かに身じろぎする。その反応に倒していた半身を起こし、面白がってもう一度呼気を吹きかけた。
「敏感肌なのかな」
意味が違うが、そんなことを知る由もないバッツ。視線の下ではクラウドが敷いていた手に顔をこすりつけて呻いていた。しばらくむずがっていたが、横に向けたその小綺麗な顔に再三冷たい空気を吹いてやろうとにやけたバッツが頬を膨らませたとき、前触れもなく閉じていたクラウドの目が開き、滑らかにバッツを捉えた。
「ぶぁはっ!」
「……何をしてるんだ、あんたは」
たまらず飛び退いたバッツを見ながらクラウドは体を起こす。バッツから見えなかった側のその顔は、口元と頬骨に擦り傷を作っている。砂利か荒いアスファルトで削ったような痛々しい傷具合に、バッツは顔をしかめた。
「それ、どしたの?」
「…覚えてないのか。あんた、転んだときに俺を道連れにしたんだよ」
「えっ?」
「そのあと人の迷惑も考えずにゲロゲロ吐きやがって」
「ええっ?」
もちろん記憶なんてこれっぽっちもないが、道理で体は痛いし吐き気はないわけだと言ったら、当然目の前で仏頂面してるクラウドがさらに不機嫌になるだろうことは予想できるため、慌てて口を噤む。
クラウドは上手く投函物の取り出し口を避けてドアにもたれかかり、服の埃を払って顔に手を当て、傷の調子を見ているようだ。時折痛ましい箇所に指が触れて、顔を歪めている。大方転んだバッツを抱えて下敷きになったのだろう。けれど先ほどのバッツのように、一人で足元も危ない人間を急に支えるのは少し無理がある。顔に血が滲んでぼろぼろになっているのは、バッツに巻き込まれて顔から転んでしまったからのようだ。実害が目の前に現れるとそのときの記憶があろうがなかろうが、どうしても申し訳なさで畏縮してしまう。クラウドの顔が好きな女の子たちにまで怒られてしまうんじゃないだろうか。これが友人相手ならここまで肩身の狭い思いをしなくてすむが。
「あ、そういえばさ」
「謝罪はなしか」
「ごめんごめん。で、何で俺ってクラウドに送ってもらったんだ?」
「そこも覚えてないのか…」
いっそ呆れたふうに肩をそびやかしたクラウドは、舌なめずりして少し抉れた口元を気にしながら口を開いた。
「いざ帰ろうってときに暴れたんだよ、酒屋で。子供よりひどい駄々のこね方だ。当分ネタにされるな」
「げー…」
「で、俺が引率するなら大人しく帰るってありがたいことにあんたからご指名をもらって」
「マジかー。ぜんっぜん覚えてねー」
「ま、あそこまで泥酔してればな」
どんな酔い方をしたのだろうか。戦々恐々のバッツへ、気怠げに首を回すクラウドから、また、あの薫りが。つられるようにしてバッツはたたきに降り、立てたクラウドの膝に割り入って鼻を鳴らした。
「…あー、イイ匂い。落ち着くー」
花の甘やかさではなく、萌芽の新しい清々しさ。子供の頃の、なんと懐かしいこと。クラウドの匂いに吸い寄せられたから、酒屋から彼に迷惑をかけ通しでいられたのだろうか。そういうことにしておこう。
そのままクラウドの頭と投函箱の間に頭を挟み込むと、クラウドはか細いため息を吐いた。
「なんか香水つけてるだろ」
「ああ」
「俺、これ好き」
「そうか」
「うん」
銘柄を教えてくれる気はないかと、彼の素っ気ない返事に苦笑いする。半ば寄りかかる姿勢でたたきに詰めているから、自然声は小さくなった。会話の合間を縫う、下水の音。外を走る車の音は、昼時だからだろう、普段より少ない気がする。
目を瞑ってバッツがずるずると頭を下げていくと、暫しもしないうちにクラウドの襟刳りにぶち当たった。冷たいドアで冷えた額が、クラウドからゆっくり温もりを奪う。
「冷たい」
クラウドは非難がましげに身を捩る。
バッツはちらっとクラウドの横顔を盗み見た。狼の頭を模した大きめのピアスの向こうに、傷で荒れた横顔がある。バッツの散らかった部屋を不乱に見つめる目が、静かに汚いという感想を述べていた。
バッツは顔を戻し、ドアの隙間から部屋に入り込んでくる秋の少し過ごしやすくなった空気に鼻っ柱を冷やしながら、クラウドの肩に顎をもたせた。
こんな狭いところで、何やってんだろ俺たち。
そう思いながらも脳裏に愛鳥が浮かび上がり、ついにバッツは体の力を抜いた。