ある昼下がり、某ホテルの一室にて学校から出された宿題を遅々としながら進ませていた仗助は、ふと思い当たったような唐突さで、だらしなく机に懐かせていた上半身を素早く起こして尋ねた。
「承太郎さんは、初めてジジィが余所でガキこさえたって話を聞いたとき、どう思いました?」
我ながら、選んだ言葉が悪すぎると思う。本当なら仗助だって自分の母親を、間接的とはいえこんな話題の槍玉に挙げたくなかった。澄まし顔で英字新聞を広げて仗助の向かいに座る、年上の甥という奇妙な間柄の男も、何を思ってか訝しげに記事を捲る手を止める。
大柄で口数も少なく無表情であるために少々恐ろしげな印象を持たれるが、知性を持つ静かな落ち着いた眼差しは、仗助の不躾な質問に気を悪くするよりも、その問いを口にした意図を仗助の佇まいに見つけようとしているようだった。
「その言い方は好きじゃねえな。手前をそんな風に言うもんじゃねえぜ」
「はあ…これしか言い様が思い当たらなかったもんっすから…」
すみません、と軽く頭を下げると、承太郎はめったに崩さない顔を僅かに歪めて忌々しげに仗助から目をそらし、ため息を吐いた。それに含まれる、理解できねえという彼の独り言に、仗助はそうかなあと思う。
十余年生きて一度たりとも耳にしたことがなかった甥、というのが前触れもなく現れたとき、仗助の心はいつになく落ち着いたものであった。自分より十以上も歳が離れた年上の『甥』や、八十を迎える高齢な父を持つこと、古めかしい言葉を取るなら仗助が彼らにとって妾腹の子であることなんかの諸々は、ともすればそんな事情でシングルマザーにならざるを得なかった母が揶揄する世間の目に晒されていたと知った頃から、いつか訪れるのかもしれないと根拠もなく覚悟していたのだろう。母は仗助を望んで生んだのだと既に聞かされていたし、仗助の父との関係も良好だったとも惚気られていた仗助にとって、今までとさほど状況が変わらぬ程度の些事にしか思えなかったけれど。
何より、甥たるこの男は、潔癖なきらいのある世間からすればあまり褒められたものでない家庭の東方家を忌避するでも唾棄するでもなく、平素親類と接するのと変わらない態度であり、むしろ下半身事情がお盛んな自らの祖父に呆れていた。しかし祖父に対しても決して冷ややかなばかりに非ず、不遇を強いた高齢な祖父の代わりに殴られるだろうことを腹に決めて、仗助の前に姿を現したのだという。
だからこそ、自分がその立場だったら彼と同じく誠実であれたかなんて不毛な例えには、どこまでも猜疑的な仗助であった。
承太郎は再びため息を吐いてさっさと宿題を終わらせろと非難がましげに仗助を見ていたが、いつしか無駄だと悟ったようで、新聞を投げ出して椅子の肘掛けに軽く頬杖をつき、静かに口を開いた。
「正直、呆れた。自分の歳を省みろってな」
「…それだけっすか?」
「ああ」
思えば承太郎は、仗助と初めて会ったときから、仗助を疎んだ目で見はしなかった。自分の祖母が激怒しているだとか、財産分与の小難しい話だとかばかりで、承太郎の胸中は一切吐露されなかったのである。過ぎたるは追わざるがごとし。そんな、他人事のように俯瞰する眼差しは、ほんの僅かに窺える興味のみ。
「お前と同じ歳の頃だったら、もっと違う感想を持っていたのかもな。だが、今はもう裏切られたと騒ぐ年齢でもねえ」
それはそれで、とても寂しいこたえだ。
帽子の鍔を正す承太郎を見ながら、仗助は思った。
仗助ならばやはり怒るだろう。自分たちだけの家族ではなかったのだと、ショックを受けるだろう。それが、世間一般の反応ではないのか。どこか遠くに心を馳せている様子の承太郎のそれは、年を重ねたことで得た老獪さばかりが理由ではない気がした。
「……承太郎さん?」
「…ん」
「それでもやっぱり、ジジィのこと、気にかけてるんすね」
「これでもガキの頃はたいそうなジジィ思いだったらしいからな。それに、ジジィの気持ちは…わからんでも、ない」
「えっ」
「一番を決めるってのは難しいってことだ」
その一番を、一番のままにするってこともな。
独語のように所在のない、落ち着いた声。精悍で穏やかな面立ち。口に連ねるのは、どうしようもない背徳の言葉。
生憎、仗助は自分の一番をまだ見つけることができないでいるし、彼の言葉の意味を測りかねているような子供だけれども、承太郎の性質は苦々しいそれを土台にして成り立っているように見える。
十年前に承太郎がやむなく経験したという旅をたびたび話題にして、しかし彼は仗助に心情を告げることはなかった。あくまでも淘汰された情報として告げられた彼の話から、それを彼が本当に経た出来事と納得するのは簡単ではない。あるがまま、というには、どこか現実味のないそれ。敵からも、持ち得るスタンド以上に恐れられた、客観視が過ぎたるが故の鋭すぎる判断力と冷静さ。
それらが災いする、彼ならば一人でも立派にやれるという信用とは名ばかりの過分な重圧、あるいは同情すら得ることがなかなか叶わないとあっては、生きるのにもとかく苦労するに違いない。とらぬ狸の何とやら、無礼を承知で沈思した。
「俺は、一番なんてまだいませんよ」
「焦って無理に決めることはない。絶対に決めなきゃいけないもんでもねえ」
「そういうモンっすかね」
仗助の気のない返事に、承太郎は黙して肩を竦めただけだった。禅問答のような埒の明かない遣り取りにとうとう匙を投げたらしい。自分が裾野を広げたくせに、と見当違いにも彼が恨めしくなる。
背を向けて書き物を始めてしまった承太郎の白い上着に目を細め、疾うにやる気の失せた宿題のノートの上で転がる鉛筆を指先で揺らし揺らし、仗助はまたも雑念に耽る。
学者という、めったなことでは手に入らない地位に彼がどういう経緯でなろうと思い至ったのか、仗助は知らない。しかし、以前顔を合わせた仗助の父(であると同じくして、承太郎の祖父)がこぼしたのには、曰わく勉学よりも喧嘩に明け暮れていた彼の学生時代を知る者には、予想も追いつかない職に就いたものだ、と。それを聞いた承太郎は苦く顔をしかめていたが、果たして昔のやんちゃを掘り出された不快によるものだろうか。分厚い本や専門書を片手に無機質な音を立てて紙を引っかきながら筆を進ませる承太郎の、物静かな佇まいを飽きもせずに眺めていた仗助は、ついにはすっかり身じろぎすることすら頭からほっぽり出して、妄想にのめり込んだ。
かつては喧嘩三昧の学生だったらしい、今は仗助の知る人間の中でも群を抜いて理性的な甥。理不尽に他人へ絡むことはなかったのかもしれないが、西洋の血が混じった掘りの深い顔立ちが他意もなく悪目立ちして、いちゃもんをつけられることもあったろう。
その象徴たる、仗助のような父譲りの青みがかった目でなく彼の薄く淡い緑色の瞳は、祖母の血筋からの遺伝だという。決して嫌いではない色だ。遠い南国の、海の色にも似ている。あたたかくて、穏やかな、広い海。
「……ああ、そうか」
仗助は、承太郎にどうしようもない憧憬を抱き、理想の自分を重ねていたのだ。人の気持ちを無言で汲む、共にいるだけで誇らしい気分になれる異数の人間の傍らで育ってみたかったのだ。それは、今や到底叶うことのない願いだが、それでも『たられば』は止まらない。この人の傍にあり続けたら、いつかこの人に近づけるだろうか。
瞬きすら惜しむ様子で見つめてくる仗助に、いい加減鬱陶しさを感じたのか、承太郎はいつも以上の仏頂面で仗助を睨めつけた。
「何なんだ一体、さっきから人の顔をじろじろと………ほとんど進んでねえじゃねえか」
「困ったことに、おっしゃる通りで」
言葉とは裏腹に、仗助の調子はちっとも困ったように聞こえなかったのだろう(事実、仗助は宿題の件に於いてそこまで深刻に考えていなかった)、呆れて眇められた承太郎の鋭い視線が、仗助に突き刺さる。が、それも束の間、ふと承太郎のまなじりと口元が綻んだ。彼には何とも珍しい、彼なりの笑みであった。
承太郎はおもむろに丁寧な造りの椅子から腰を上げると、ベッドサイドに敷設されていた小さな冷蔵庫を開け、取り出したミネラルウォーターを仗助に手渡した。てっきり不真面目な態度の自分に、小言のひとつでも辛辣に投げて寄越してくるのではと身構えた仗助は、手のひらに押しつけられた冷えたペットボトルの感触に暫し呆然としながら、そんな仗助を見下ろす承太郎の顔を窺い見る。
承太郎は、静かに言葉を紡ぐ。
「効率が落ちているようなら、休憩を挟むことだ。あまり根を詰めようと気負うと逆効果だぞ」
うわ、ずりい。
仗助は口元を間抜けに緩ませた。
承太郎は、仗助の思うところが目の前でふてぶてしくしている宿題に向けられているのではないことを、早々に気づいていたのだろう。しかし、それと知りながら深くは立ち入らず、一線の向こうから真摯な声で諭している。相手が自分から打ち明けてくるまで、じっと待っている。空気のようなそんな気遣いを、己はできそうにない。
嬉しいやら不甲斐ないやらで胸中複雑な仗助がひとまず承太郎の厚意をありがたく頂戴して、中身が半分ほどになったペットボトルを脇に置くのを見た承太郎は、小さく顎を引いて満足げに瞬きをした。その仕草がやけに幼く写って、けれど仗助は三十路間近の男に言う言葉ではないよなと慌てて誤魔化すように鉛筆を握り、進みもしない宿題に目を落とす。承太郎も、仗助から不穏当な色合いを察したのだろう、追尋することなく、再び新聞を広げた。
静かに、緩やかに部屋を流れる苦にならない沈黙は、失った仗助の平静を呼び戻してくれたようだった。時に新聞記事の折れる音が甲高く響く以外が、粛々となりを潜めている。目を合わせればあれほど存在感が強いのに、目の前のこの男も含めて、ひっそりと。
懲りもせず仗助が承太郎へ視線を投げかけると、承太郎は新聞を刻んでファイルに収めていた。細かい英字が並ぶそれは、よく見ると何やら水棲生物の写真がある。身なり(特に帽子)に関して気を払う彼らしい、まめな作業だ。しかし彼の生活振りを見る限り、寝食にはあまり頓着しない性格だと判じている仗助は、その天秤度合いに小さく苦い笑みをこぼす。
「承太郎さん」
「ん?」
「俺は水もらったからいいっすけど、承太郎さん、俺が来てからずっと、なんも口にしてねえじゃん。喉、渇きません?」
「……そうだったか?」
「俺もなんか勉強する気なくしちまったし、休憩がてら、ちょっと外ぶらついて腹に何か入れましょうよ」
「てめぇ、始めっから俺にたかる気だったな」
仗助は承太郎の半眼には何も返さず、ただただ目の前の男に一度だけ愛嬌があると言わしめた、人懐っこい笑顔で承太郎を見る。そんな下心まみれの仗助が向ける笑顔に何を思ったのか、承太郎は帽子の鍔を触ってお約束通りの言葉を呟いた。やれやれだぜ、と。それが何よりの白旗と知っている仗助は、げんきんな野郎だ、なめてやがるのかと言いつつ腰を重たげに上げる承太郎の後を追って、握っていた鉛筆を放り出した。
いっそ飛びついてじゃれたい広い背中に、しかし彼に対する敬愛の念がこれっぽっちも損なわれていないと告げるのはやはり仗助とて気恥ずかしかったので、口は貝よりかたく閉ざすことにして。
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